IT戦略(ニコラス・カーの論文)


昨年の夏に米国で、ある論文を巡って論争が起きました。ニコラス.G.カーがハーバード・ビジネス・レビュー2003年5月号に寄稿した「IT dosen‘t matter」という論文が契機です。カーは、ITが既にコモディティ化しており、誰でも容易に入手できるツールとなったため、競争力を継続的に維持する効果を失ったと言います。革新的な業務展開に応用したとしても、短期間で他社に追随される、或いは、追い越されてしまうからです。カーはITの価値を否定している訳ではなく、ITそのものに戦略的価値があるという思い込みから、野放図な投資を行なうことに警告を発しています。費用を抑えて、二番手戦術をとり、未確定な将来リターンを期待せずに、現状の課題解決にITを活用すべきで、安易なアウトソーシングは将来の脅威となるかもしれないと言っています。

カーの論調に対して、ITの戦略性を強調したり、有効活用できていないのは使い方の問題だとか、戦略的効果が仮に短期間であっても、それがレバレッジ効果をあげるのであれば充分だとかの意見が出てきました。私が、少し心配するのは、一部の評論家やジャーナリズムが、この論争を表面的に引用して、ステレオタイプの決め込みを始めたことです。曰く「最近、アメリカでも、ITの効果が疑問視され、投資を抑える経営者が出てきていますが、・・・・」という言い方です。日本版HBR2004年3月号にカー論文の邦訳が掲載されています。興味のある方は、ご一読をお奨めします。

昔、ITベンダーの営業をしている時に、顧客から聞かれました。「コンピューターを一番うまく使っている銀行はどこですか?」私がある銀行を名指しますと「でも、その銀行の業績は余り良くないですよね。」と言われました。私は腹の中で「コンピューターの使い方がうまいだけで、銀行商売で大儲けできるなら、当社が銀行やって儲けた方が、話が早いだろう。」などと思ったものでした。しかしながら、この質問に対する回答を得たのは、それから10年以上も経った後でした。ボストン大学のヘンダーソンという学者のIT/ビジネス・アライメント理論を聞いた時でした。

運送業界もIT戦略に熱心な業界ですが、今から、20年ほど前のベストプラクティスは、西濃運輸でした。金融でも使えるアイディアがあるかと、岐阜まで見学にいったことがあります。数年もせずに、大和運輸が画期的な配送管理システムを構築して、ベストプラクティスになりました。今日では佐川急便がベストとされています。それぞれにIT施策の目指すところは違います。ビジネス戦略が進化するのに応じて、ITもその時々で利用できるものを活用するということでしょう。

要は戦略を業務プロセスに実装する段階における技術の選択と実装力の問題です。一つの戦略が長期に有効であることは稀です。差別化能力の持続性を確保するには、金で買えない機能をITにロックインすることです。私は、データだと思っています。それも自動蓄積型のデータです。金融でいえば顧客の信用情報が代表的なものです。データを蓄積するには時間が必要です。時間は回復不可能な資源です。とはいえ、最近では、M&Aのように時間を金で買う戦略もありますが。

最近では、ITの共同化やアウトソーシングを戦略的と言うことが増えたようです。ITコストが20%程度下げられるからだそうです。全コストの10%程度を占めるITコストを20%下げたとしても、全体における効果はたかが2%です。とても戦略的とは言えないマグニチュードです。

金融における戦略的システムは情報系であって、どの銀行でも同じ機能の勘定系は戦略的ではないとの考えもあります。だから外だし、丸投げしても問題ないというのでしょう。勘定系の機能が、ほぼ同様なのは技術に原因がある訳ではありません。規制と経営の独創性欠如に原因があります。以前は、通帳やカードの些細なデザイン違いを独自性としていました。規制が緩和されて、些細な違いに意味がなくなったのですが、大きな違いを見つけ出せないから同じで良いという論理なのかと思ってしまいます。アウトソーシングしても、IT企画立案機能だけは保持することが多いのですが、実働部隊を持たない参謀本部には、学習機会もなければ、技術選択能力もありません。

ベンダーの側からすれば、アウトソーシングや共同化は好都合です。顧客の内部コストをベンダーの売上げに変えることで、新規ビジネスとなります。もっと重要な背景がベンダーにあります。昔のように、ある世代のシステムを護送船団の先頭から末尾まで10年以上をかけて繰り返しビジネスが出来なくなりました。極めて短期間に多くの銀行が、同様のシステムを構築する時代になってしまいました。CRMや収益管理程度の規模であれば対応できますが、勘定系となると要員の確保が難しくなります。確保できたとしても、その製品寿命は、かつての半分以下です。とても採算がキープ出来ません。共同化と称して、顧客をまとめて囲い込めれば、それこそ戦略的です。

カーンは、ITそのものに戦略的価値はないとしています。しかし、戦略の実行段階におけるビジネス遂行にITが不可欠だとも言っています。極めて当り前のことで、今更、論争になることが不思議に思えます。多くの経営者が口には出さないものの、ITの効果に疑問を抱いており、その疑問が表面化することに危機感をもつ人たちがいるのでしょう。

日本人、特にマスコミやIT関係の人たちは戦略という言葉を好んで使います。意味定義を聞きますと明確な答えがありません。元々は軍事用語でありますが、最近は、何か重要であるが、結果責任は相手にある旨を意味して使うことが多いようです。私は、この言葉を連発する人を、頼りにしないことにしています。

ITを戦略的施策の道具として使うには、ITガバナンスとITケイパビリティが不可欠です。昨今の金融界は、リストラという経費削減を優先して、この二つを急速に劣化させています。それが、IT企業の戦略だとしたら、まさに長期に持続可能な差別化戦略が実現しつつあると言えます。しかし、利益が出るかは別の問題です。